1月23日金曜日朝,Casa Santa Marta の礼拝堂での説教において,フランチェスコ教皇は,和解の秘跡と神の慈しみのテーマに立ち返った.
教皇はおっしゃった:告解は,裁きではなく,神との出会いです.神の慈しみを求めてやまない者たちの罪を,神は赦してくださいます.
「ヘブライ人への手紙」を読み解きながら,教皇は,使徒パウロが論じている「選ばれた民との神の契約」のテーマに立ち返り,そして,赦しのテーマへ考察を広げた.
教皇は強調した:「和解させる」ことは神の御業(みわざ)です.和解させる神は,人間と新たな契約を結び直すためにイェス様を世にお使わしになりました.その新たな契約の基礎は,赦しです.
赦しには,幾つかの特徴があります.まず,神は常に赦します.赦すことを決してやめません.「七回赦すべきですか?」と尋ねたペトロに,主は「七の七十倍赦しなさい」とお答えになりました.神はどこまで赦してくださるのかについて,人間は疑います.しかし,悔いて,赦しを求めれば,十分です.代価を支払う必要はありません.なぜなら,キリストがわたしたちのために贖いの代価を既に支払ってくださったからです.
機械的な告解はいけません.
聖書の譬え話のなかで,悔いた放蕩息子は,父に言うべきことを予め準備して行きました.しかし父は,息子にほとんど何も言わさずに,両腕を広げて彼を抱きしめただけでした.神も同様です.神は,わたしたちが罪を告白しようと話し終える前にでも,赦しの喜びを感じさせてくださいます.
和解のもうひとつの特徴は,赦すとき神は祝宴を開いてわたしたちを迎えてくださる,ということです.なぜなら,神にとっては,わたしたちと出会うことが大切だからです.
教皇は司祭たちに,告解所に入るときには良心に問うてみるよう勧めました:「わたしは,すべてを赦す準備ができているか?この人の罪を忘れる準備ができているか?」
告解を機械的なもの,形式的なものにしてはなりません.告解は裁きではありません.クリーニング屋で染み抜きをしてもらうようなものでもありません.告解は,和解させてくださる御父との出会いです.