今日(9月14日),教会は,イェス・キリストの十字架の記念日を祝います.イェス・キリストの十字架において,わたしたちは,キリストの神秘を十全に理解します.あの無化の神秘を,キリストがわたしたちに近い者でいてくださることの神秘を.
「彼(イェス・キリスト)は,神の形相において在りながら,神と同等であることに固執しなかった.而して,彼は自身を無化し,しもべの形相を取って,人間と同類の者となり,その姿において人間と認められた.彼は,自身を低くし,死に至るまで – 十字架上の死に至るまで – 従順となった」(Ph 2,6-8).
これが,キリストの神秘です.人間の救済のために殉教者となる神秘です.イェス・キリスト,最初の殉教者,わたしたちのために命を捧げてくださった最初の者.そして,このキリストの神秘から,キリスト者の殉教の全歴史 – 最初の世紀から今日に至るまで – は始まります.
最初のキリスト者たちは,自身の命を代価に払って,イェス・キリストを信ずると告白しました.最初のキリスト者たちには,棄教が提案されました:「本当の神は我々の神であり,君たちの神ではない.我々の神 – ないし,神々 – にこそいけにえを捧げよ」.そうせず,棄教を拒むとき,最初のキリスト者たちは殺されました.
その歴史は,今日に至るまで繰り返されています.さらに,今日,教会のなかには,最初の時代よりもより多くのキリスト教殉教者がいます.今日,殺害され,拷問され,投獄され,喉をかき切られるキリスト者たちがいます – イェス・キリストを否まないがゆえに.
そのような歴史のなかに,わたしたちの Jacques 神父はいます.彼は,連綿と続く殉教者の列に属しています.
今,苦しんでいるキリスト者たち – 投獄され,殺され,あるいは拷問されて – イェス・キリストを否まないがゆえに – は,まさに,そのような迫害の残酷さを目に見えるものにしています.棄教を要求するこの残酷さは – こう言いましょう – 悪魔的である.そして,どの宗教であれ,すべての信仰はこう言うのが良いでしょう:「神の名において殺すことは,悪魔的である」.
Jacques Hamel 神父は,十字架上で喉をかき切られました.ちょうど彼がキリストの十字架のいけにえを記念しているときでした.善良で,優しく,兄弟愛に満ち,平和を実現しようと常に努めていた彼は,あたかも犯罪者のように殺害されました.連綿と続く悪魔的な迫害です.
祭壇でキリストの殉教とともに自身の殉教を引き受けた彼のなかに,わたしの思いを強く引きとめるものがあります.彼が生きたあの困難な瞬間,あの悲劇のただなかで,彼は,優しく,善良で,兄弟愛を為す彼は,清明な意識を失わず,殺害者の名を明瞭に言って告発しました:「退け,サタン!」
彼は,わたしたちのために命を捧げました.彼は,イェスを否まないために命を捧げました.彼は,祭壇上で,イェスのいけにえそのものにおいて,命を捧げました.そして,彼は,祭壇から,迫害を為す者を告発しました:「退け,サタン!」
ほかの人々を助けるためにみづから自身を無化し,人々の間に兄弟愛を実現する勇気のこの実例,自身の命を捧げる殉教のこの実例が,わたしたち皆にとって,恐れることなく前進する手助けとなってくれますように.彼が天から – というのも,わたしたちは彼に祈るべきだからです.彼は殉教者です.そして,殉教者たちは福者です.わたしたちは彼に祈るべきです.彼が天からわたしたちに優しさと,兄弟愛と,平和と,真理を言う勇気を与えてくれますように.「神の名において殺すことは悪魔的である」という真理を断言する勇気を.