2015年2月1日日曜日
主はわたしたちと共にいらっしゃる
今日の福音朗読は,マルコ福音書 1,21-28 でした.本郷教会で御ミサの司式をなさった山本量太郎神父様は,「聖書と典礼」に引用されている福音朗読の最初の文:「イェスは,安息日に[カファルナウムの]会堂に入って教えられ始めた」は,原文と異なっており,重要なことが表現されていない,と御指摘になりました.
原文では,「彼らは,カファルナウムの街に入った.そして,安息日になるや,イェスは会堂にお入りになり,教えられた」と書かれてあります.
「彼ら」は,イェス様と,漁師であったがイェス様に呼ばれてすぐさま従った弟子四人,すなわち,ペトロ,アンドレ,ヤコブ,ヨハネとを指しています.
つまり,イェス様は,福音を説き伝える活動の最初のときから,一人ではなかったのです.弟子たちと一緒であったのです.
そしてそれは,今でもそうです.イェス様は,今も,常に,わたしたちと共にいらっしゃいます.そして,わたしたちは,ペトロ,アンドレ,ヤコブ,ヨハネと同じく,イェス様の弟子として,イェス様につき従っています.
次いで,山本神父様は,今シリア・イラクの国境付近を支配している武力組織に捕らえられた湯川遥菜さんと後藤健二さんに思いを馳せつつ,フランチェスコ教皇の発言を引用なさいました:神の名において戦争をすることはできない.暴力を正当化するために宗教を利用することはできない.
キリスト教も,ユダヤ教も,イスラム教も,神は慈悲深く,愛に満ちた方である,と教えています.神は寛容であり,赦しを与えてくださいます.神の名において暴力を正当化することは,どの宗教においても許されません.
この記事の最後に,今日の御ミサで歌われた聖歌のひとつの歌詞となっていたマタイ福音書の「八つの幸福」を引用したいと思います(フランシスコ会訳):
自分の貧しさを知る人は幸いである.
天の国はその人たちのものである.
悲しむ人は幸いである.
その人たちは慰められる.
柔和な人は幸いである.
その人たちは地を受け継ぐ.
義に飢え渇く人は幸いである.
その人たちは満たされる.
憐み深い人は幸いである.
その人たちは憐みを受ける.
心の清い人は幸いである.
その人たちは神を見る.
平和をもたらす人は幸いである.
その人たちは神の子と呼ばれる.
義のために迫害されている人は幸いである.
天の国はその人たちのものである.
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