2014年7月23日水曜日

田中昇神父様

7月20日の Notre Dame de Tokyo 聖マリア・カテドラルの10時の御ミサは,ローマ留学から帰国なさったばかりの田中昇神父様の司式により行われました.

田中神父様が翻訳した Gianfranco Ravasi 枢機卿の本:『出会い』に記されている訳者略歴を紹介します:

1976年生まれ.
1997年,関口教会で受洗.
1999年,早稲田大学理工学部卒業.
2001年,同大学院理工学研究科博士前期課程終了.
2001-2004年,三菱化学勤務,医薬品研究開発に携わる.
2004年,東京カトリック神学院入学.
2010年,日本カトリック神学院卒業(東京カトリック神学院は福岡サン・スルピス大神学院と統合されて,2009年に日本カトリック神学院となりました).
2010年,司祭に叙階.
2011年,教皇庁立ウルバノ大学で神学学士号を取得.同大学院に留学.

暫くの間は,目黒教会の助任司祭をなさるそうです.将来は司教様になられるでしょう.楽しみです.

田中神父様がローマから無事帰国し,あらためて東京教区で司牧してくださるようになったことを,主に感謝します.田中神父様にこれからも主の恵みが豊かにありますように.

2014年7月13日日曜日

種まきの譬え話

今日は,Notre Dame de Tokyo 東京聖マリアカテドラルで,山本量太郎神父様司式の御ミサに与ってきました.興味深い説教でしたので,わたしの記憶をもとに御紹介します(以下,文責は山本神父様ではなく,わたし Luc にあります).今日の福音朗読 (Mt 13, 1-23) の一部を先に引用しておきます:

イェスは譬えを用いて語られた:「種をまく人が種まきに行った.まいている間に,ある種は道端に落ち,鳥が来て食べてしまった.ほかの種は,石だらけで土の少ない所に落ち,そこは土が浅いのですぐ芽を出した.しかし,日が昇ると焼けて,根が無いために枯れてしまった.ほかの種は,茨の間に落ち,茨が伸びてそれをふさいでしまった.ところが,ほかの種は,良い土地に落ち,実を結んで,あるものは100倍,あるものは60倍,あるものは30倍になった.」

この有名な譬え話を,イェス様が初めて語ったとき,聴衆はどう受け取ったでしょうか?どう理解したでしょうか?

神父様はかつて,或る高校で聖書研究会の指導をしたことがありました.5, 6人のメンバーは皆,聖書を初めて読む子たちでした.「種まきの譬え話」を読むとき,神父様は,先ほどの引用箇所のみをプリントにして子供たちに渡し,それに続くイェス様の解説の部分は敢えて見せないで,彼らがこの譬え話をどう受け取るか,どう理解するか,彼らの仲間どうしのディスカッションの様子を見てみました.

彼らの結論はこうでした : 1) 種はすばらしい.種には,芽を出し,葉を広げ,花をつけ,実を結ぶ可能性すべてが含まれている ; 2) 種をまく人は,あらゆるところに,どんなところでも差別・区別をすることなく,あまねく種をまいた ; 3) 種をまく人は,既に種をまいた.種は,既にまかれてある.

山本神父様は,子供時代からずっと,この種まきの譬え話を,「良い土地」になれという教訓として受け取ってきました.自分は「良い土地」でなければならないのに,なかなかそうなれない自分に自責の念を感じていました.ですから,子供たちの新鮮な理解にとても感動しました.

種は,イェス様の御ことばです.それは,時代や国籍や信教の区別無く,あらゆる人の心のなかに,もう既にまかれてあります.わたしたち,福音を宣べ伝える者たちが為すべきことは,それらの種が芽を出し,実を結ぶことができるよう,手助けし,見守ることです.

2014年7月9日水曜日

フランチェスコ教皇様の2014年7月6日の説教

教皇様の2014年7月6日の Angelus のときの説教です.(Luc 私訳)

兄弟姉妹たち,今日は!

    今日の日曜日の福音には,イェス様の招待が見出されます.主は,こうおっしゃっています:「労苦し,重荷を背負っている者は皆,わたしのもとへ来なさい.休ませてあげよう」(Mt 11,28). イェス様がそうおっしゃるとき,彼の目の前にいるのは,ガリラヤの街で毎日出会う人々です:つつましく,貧しく,病み,罪深く,疎外された多くの人々... それらの人々は,いつもイェス様の後を追いました.御ことばを聴くためです.希望を与えてくれる御ことばを!イェス様の御ことばは,いつも希望を与えてくれます!そしてまた,せめて彼の服の縁だけにでも触れるために.イェス様御自身も,羊飼い無き羊の群のような疲れ果てた群衆を探し求めました (cf. Mt 9,35-36). それは,彼らに神の御国を告げ知らせるためであり,多くの人々の身体と精神を癒やすためでした.今や,イェス様は,彼らを皆,御自分のもとへ招きます:「わたしのもとへ来なさい」.そして,慰めと休息を彼らに約束します.
    このイェス様からの招待は,不安定な生活条件や困難な生活状況に苦しみ,そして,ときとして有効な身分証明書も持たない多くの兄弟姉妹たちへ届くように,今の時代にまで及んでいます.貧しい国々において,また,豊かな国々の都市郊外において,多くの人々が,遺棄と無関心という耐えがたい重荷を背負わされて,疲れ果てています.無関心:困窮した人々に対して,他者の無関心は何という苦痛を与えることでしょう!しかも,より悪いことに,キリスト教徒たちが無関心なのです!社会の辺縁部では,多くの男女が,世間の無関心に苦しんでいます.満足に生活できないこと,満たされないことに苦しんでいます.自分の生命を危険にさらして故国から移住することを余儀なくなれた人々がたくさんいます.人間を搾取する経済システムの重荷を背負わされている人々は,今日,もっと多い.その経済システムは,耐えがたい軛を押しつけてきます.多くの人々が負わされているこの軛を,しかし,少数の特権階級の者たちは共に背負おうとはしません.天におられる御父の子供たちひとりひとりに,イェス様は繰り返し言います:「皆,わたしのもとへ来なさい」.しかし,イェス様はこの招きの御ことばを,すべてを持っていながらも心が空虚で神無きままである人々に向けても発しています.彼らにも,イェス様は「わたしのもとへ来なさい」と言っています.イェス様の招待は,すべての人々に向けられています.しかし,特に,より多く苦しんでいる人々に向けられています.
    イェス様は,皆に休息を与えることを約束します.しかしてまた,イェス様はわたしたちを招きます.その招きは,ひとつの命令のようでもあります:「わたしの軛を負いなさい,そして,わたしに学びなさい.そも,わたしは心の優しい,謙虚な者であるから」(Mt 11,29). 主の軛は,他人の重荷を兄弟愛を以て背負うことに存します.わたしたちは,キリストの休息と慰めをひとたび受けたなら,今度はわたしたちが,主にならって,優しく謙虚な態度を以て兄弟たちの休息と慰めになるよう,呼びかけられています.心の優しさと謙虚さによって,わたしたちは,他人の重荷を背負うことができるだけでなく,しかしてまた,わたしたちの個人的見解や判断や批判や無関心によって他人の重荷にならないようにすることができます.
    いと聖なるマリア様に祈りましょう.疲れ果てた人々をあなたの庇護のもとに迎え入れてください.主の光に照らされた信仰,わたしたちが人生のなかで証しする信仰を通して,わたしたちが,助けと優しさと希望を必要としている多くの人々のために慰めとなることができますように.




2014年7月3日木曜日

なぜ日本ではカトリックが広まらないのだろう?

7月1日火曜日の朝,定期的な牛久入管収容所訪問へ行く途中,兄弟 François とおしゃべりしながら,話題は Facebook に出ていた結婚式場のことになりました.その建物を「なんちゃって教会」と呼んでる人がいました.ちょっと見には本物の教会に見えます.

日本の一般の人々にとってキリスト教と言うと,クリスマスと結婚式だけでしょう.復活祭はほとんど話題になりません.Halloween はキリスト教の行事ではありません.少なくとも,カトリックの行事ではありません.あとは,長崎の原爆被災の記念日に大浦天主堂で祈る人々の姿がテレビで報じられるぐらいでしょうか.

江戸時代の間はさておき,明治の開国から150年近くたとうとしているのに,また,大戦中は事実上のキリスト教弾圧がありましたが,敗戦と第二の開国から来年で70年になるのに,なぜキリスト教は,特にカトリックは,信仰の実践としてかくも日本で広まらないのでしょうか?カトリック信徒は日本の総人口の 0.3-0.4 % だと言われています.横ばい状態だそうです.

クリスマスと結婚式は,商業主義によってキリスト教の極めて限られた側面のイメージが宣伝されたことによって,社会に広まり,定着しました.美しいクリスマスツリー,楽しいプレゼント,輝かしいウエディングドレス,おごそかな儀式... 

イメージの威力は絶大です.今は何でもイメージにしないと,言葉だけでは相手にしてもらえません.福音を説くのは言葉によってです.主は肉となった神の言葉です.しかし,真理を伝える言葉よりは,キリストとブッダのコンビを描いた漫画の方が多くの人に受け入れられます.

カトリックでは積極的に信者獲得の宣伝活動をしません.教会の門をいつでも誰にでも開いてはいますが,こちらから出かけて行って,押し売りのようなことはしません.

信仰は,やはり,外から押しつけられるものではなく,こころの奥底における神との出会いから始まるものだからです.何かある出来事がきっかけを提供してくれるでしょうが,信仰の出発点は,神の言葉を何らかの形で自分のこころのなかに聞き取ることです. 

十字架につけられた主の像も,きっと,日本でキリスト教が受け入れられない理由のひとつでしょう.しかし,それ無しでは復活の福音を説くことはできません.仮に聖母マリア様のイメージを大きく掲げても,十字架にかけられたイェス様をそれで覆い隠すわけには行きません.

主と出会えたわたしたちは選ばれた者なのだと,うぬぼれているわけにもいきません.

どうにかしてわたしたちが神の愛を証言することができますように.その機会と勇気をお与えください.