2014年7月13日日曜日

種まきの譬え話

今日は,Notre Dame de Tokyo 東京聖マリアカテドラルで,山本量太郎神父様司式の御ミサに与ってきました.興味深い説教でしたので,わたしの記憶をもとに御紹介します(以下,文責は山本神父様ではなく,わたし Luc にあります).今日の福音朗読 (Mt 13, 1-23) の一部を先に引用しておきます:

イェスは譬えを用いて語られた:「種をまく人が種まきに行った.まいている間に,ある種は道端に落ち,鳥が来て食べてしまった.ほかの種は,石だらけで土の少ない所に落ち,そこは土が浅いのですぐ芽を出した.しかし,日が昇ると焼けて,根が無いために枯れてしまった.ほかの種は,茨の間に落ち,茨が伸びてそれをふさいでしまった.ところが,ほかの種は,良い土地に落ち,実を結んで,あるものは100倍,あるものは60倍,あるものは30倍になった.」

この有名な譬え話を,イェス様が初めて語ったとき,聴衆はどう受け取ったでしょうか?どう理解したでしょうか?

神父様はかつて,或る高校で聖書研究会の指導をしたことがありました.5, 6人のメンバーは皆,聖書を初めて読む子たちでした.「種まきの譬え話」を読むとき,神父様は,先ほどの引用箇所のみをプリントにして子供たちに渡し,それに続くイェス様の解説の部分は敢えて見せないで,彼らがこの譬え話をどう受け取るか,どう理解するか,彼らの仲間どうしのディスカッションの様子を見てみました.

彼らの結論はこうでした : 1) 種はすばらしい.種には,芽を出し,葉を広げ,花をつけ,実を結ぶ可能性すべてが含まれている ; 2) 種をまく人は,あらゆるところに,どんなところでも差別・区別をすることなく,あまねく種をまいた ; 3) 種をまく人は,既に種をまいた.種は,既にまかれてある.

山本神父様は,子供時代からずっと,この種まきの譬え話を,「良い土地」になれという教訓として受け取ってきました.自分は「良い土地」でなければならないのに,なかなかそうなれない自分に自責の念を感じていました.ですから,子供たちの新鮮な理解にとても感動しました.

種は,イェス様の御ことばです.それは,時代や国籍や信教の区別無く,あらゆる人の心のなかに,もう既にまかれてあります.わたしたち,福音を宣べ伝える者たちが為すべきことは,それらの種が芽を出し,実を結ぶことができるよう,手助けし,見守ることです.

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