2016年9月15日木曜日

2016年9月14日朝,Casa Santa Marta で行われた Jacques Hamel 神父の追悼ミサにおける教皇 Francesco の説教

2016年07月26日,Rouen で,ミサの最中にテロリストたちに殺害された Jacques Hamel 神父の追悼のために,9月14日朝,Casa Santa Marta 内で行われたミサにおける教皇 Francesco 説教

今日(9月14日),教会は,イェス・キリストの十字架の記念日を祝います.イェス・キリストの十字架において,わたしたちは,キリストの神秘を十全に理解します.あの無化の神秘を,キリストがわたしたちに近い者でいてくださることの神秘を.

「彼(イェス・キリスト)は,神の形相において在りながら,神と同等であることに固執しなかった.而して,彼は自身を無化し,しもべの形相を取って,人間と同類の者となり,その姿において人間と認められた.彼は,自身を低くし,死に至るまで – 十字架上の死に至るまで – 従順となった」(Ph 2,6-8).

これが,キリストの神秘です.人間の救済のために殉教者となる神秘です.イェス・キリスト,最初の殉教者,わたしたちのために命を捧げてくださった最初の者.そして,このキリストの神秘から,キリスト者の殉教の全歴史 – 最初の世紀から今日に至るまで – は始まります.
 
最初のキリスト者たちは,自身の命を代価に払って,イェス・キリストを信ずると告白しました.最初のキリスト者たちには,棄教が提案されました:「本当の神は我々の神であり,君たちの神ではない.我々の神 – ないし,神々 – にこそいけにえを捧げよ」.そうせず,棄教を拒むとき,最初のキリスト者たちは殺されました.
 
その歴史は,今日に至るまで繰り返されています.さらに,今日,教会のなかには,最初の時代よりもより多くのキリスト教殉教者がいます.今日,殺害され,拷問され,投獄され,喉をかき切られるキリスト者たちがいます – イェス・キリストを否まないがゆえに.
 
そのような歴史のなかに,わたしたちの Jacques 神父はいます.彼は,連綿と続く殉教者の列に属しています.
 
今,苦しんでいるキリスト者たち – 投獄され,殺され,あるいは拷問されて – イェス・キリストを否まないがゆえに – は,まさに,そのような迫害の残酷さを目に見えるものにしています.棄教を要求するこの残酷さは – こう言いましょう – 悪魔的である.そして,どの宗教であれ,すべての信仰はこう言うのが良いでしょう:「神の名において殺すことは,悪魔的である」.
 
Jacques Hamel 神父は,十字架上で喉をかき切られました.ちょうど彼がキリストの十字架のいけにえを記念しているときでした.善良で,優しく,兄弟愛に満ち,平和を実現しようと常に努めていた彼は,あたかも犯罪者のように殺害されました.連綿と続く悪魔的な迫害です.
 
祭壇でキリストの殉教とともに自身の殉教を引き受けた彼のなかに,わたしの思いを強く引きとめるものがあります.彼が生きたあの困難な瞬間,あの悲劇のただなかで,彼は,優しく,善良で,兄弟愛を為す彼は,清明な意識を失わず,殺害者の名を明瞭に言って告発しました:「退け,サタン!」
 
彼は,わたしたちのために命を捧げました.彼は,イェスを否まないために命を捧げました.彼は,祭壇上で,イェスのいけにえそのものにおいて,命を捧げました.そして,彼は,祭壇から,迫害を為す者を告発しました:「退け,サタン!」
 
ほかの人々を助けるためにみづから自身を無化し,人々の間に兄弟愛を実現する勇気のこの実例,自身の命を捧げる殉教のこの実例が,わたしたち皆にとって,恐れることなく前進する手助けとなってくれますように.彼が天から – というのも,わたしたちは彼に祈るべきだからです.彼は殉教者です.そして,殉教者たちは福者です.わたしたちは彼に祈るべきです.彼が天からわたしたちに優しさと,兄弟愛と,平和と,真理を言う勇気を与えてくれますように.「神の名において殺すことは悪魔的である」という真理を断言する勇気を.

2016年7月20日水曜日

古郡忠夫神父様の御紹介

カトリック本郷教会報「ケファ」第297号(2016年7月)より

インタヴュ:アシジのフランシスコ古郡忠夫(ふるごおり・ただお)神父様に聞く



古郡忠夫神父様 : 1984年,東京生まれ.2013年,司祭叙階.成城教会助任司祭を経て,2016年6月より関口教会助任司祭,兼本郷教会協力司祭.

– 潮見教会出身とお聞きしました.教会学校の思い出は?

神学校に送り出してくれたのは潮見教会ですが,子どもの頃の思い出が多いのは築地教会です.教会が大好きで,神父様も優しくて,幼稚園のころは神父になりたいと思っていました.10歳くらいのときに築地から潮見の教会に移って,同時に中学受験のための勉強も始まり,教会にはほとんど行かなくなってしまいました.

– 北海道の大学に進学後,再び教会に通われるようになったということですが.

大学の入学式に来た母が教会に行くというので,一度だけ行くつもりで私もついていったのです.そのとき初めて行った教会で,神父様や信者さんたちが「よく来てくれたね」と暖かく声をかけてくれて,気づいたら次の週も教会に来ていました.それからほぼ毎週日曜日,ミサに参加し,教会で活動するなかで,司祭になりたいという気持ちが育まれていきました.具体的には,通っていた教会の神父様が病気になられて,体調の良くない時にはたびたび日曜日のミサがささげられない状況があって,そんなときに,こんな自分でいいならば神父として働いてミサをささげたい,と考えるようになりました.他にも色々な,これは神から呼ばれているとしか思えないという出来事がありました.

– 大学卒業後,就職して社会人としての経験を経て,神学校に入られたのですね.

卒業後,東京に戻って働きながら,ミサがあるからこそ自分はさまざまな困難を乗り越えられているのだ,と確信して,やっぱり神父になりたい,と神学校に飛び込んだ,という感じですね.それに,当時戻ってきて通っていた潮見教会の主任司祭が兼任で,教会に神父が住んでいなかったことも,こんな私でよかったら教会で使っていただきたい,という思いを強めました.父親には「神父になるのはおまえみたいな人じゃない」と言われました.うちは祖父の代からキリスト教の家で,父親も幼児洗礼なので,父親の心の中にも神父像,司祭像みたいなものがあったのだと思いますね.それでも神学校に入ってからは,父親もだんだん応援してくれるようになりました.

– 大学生の時は,ファッショナブルな若者だったそうですね.

普通ですよ(笑).本当に,ごく普通でしたから,若者らしくおしゃれもしていましたし.だから父親にとっては,そんな普通の自分の息子が神様に呼ばれているとは最初は思えなかったのでしょうね.特別な人が,生まれながらにして聖なる人が,神父になるのだ,という意識があったのだと思います.ある意味では,私たちキリスト者は皆そう思ってしまっているかもしれないのですが.でも,神様は特別な人を呼んでいるということではない,と思うのです.神様は,その人が生まれて育っていくなかで,色々な経験,必要な体験を与えながら,ちゃんと一人ひとり神様にとって大切な使命を担わせているのだと思います.

– 本郷教会の皆さんへメッセージをお願いします.

今後,日曜日にも本郷教会のミサに来て司式する機会が与えられると思います.皆さんと一緒に祈って,神がともにいてくださる喜びを確認しあい,喜びを受け取った私たちからこの本郷の地域に喜びが広がって行くことを願っています.また,私は火曜日の夕方から水曜日の午前中まで本郷教会にいますので,神父がいることによって何か教会の助けになれればいいなと思います.火曜日の入門講座も,福音を伝えたいと思って一所懸命取り組みますので,信徒の方には未信者の方を連れてきていただければありがたいです.


2016年1月25日月曜日

西川哲彌神父様の御紹介

御存じのように,2016年1月10日付で東京大司教区の司祭の人事異動の一部が発表されました.

2016年4月に関口教会主任司祭に着任なさる西川哲彌神父様の御紹介.

東京教区ニュース第307号(2013年11月01日付)より.


教区司祭紹介 第38回

セバスチャン  西川哲彌(にしかわてつや)神父

1943年 1 月19日生まれ
1976年 11 月3日司祭叙階

ご出身は?

西川:父親の仕事の関係で、旧満州国奉天(ほうてん)市です。父は北海道出身で、旧満州国に渡り、そこで広島出身の母と結婚し、私が生まれたわけです。

その後は?

西川:1946年9月に、両親と共に、母の故郷の広島に引き上げてきました。ですから私の最も古い記憶は、広島でのものです。広島駅の焼け跡、駅周辺のバラック、闇市の風景、特需に沸く中での復興する状況などが鮮明に思い出されます。

広島で少年時代を?

西川:そうです。大学入学で上京するまで広島で過ごしました。
父と直接話したことはありませんが、今から推察するに、父にとっては広島での生活、特に引き上げてきてからしばらくは、とても苦しかったでしょうね。戦争を境に、価値観の転換に直面し、アイデンティティーの喪失感の中にあったに違いありません。住まいは引き上げ者用の住宅でしたし、それまでの自分のあり方に区切りをつけるかのように、農業に携わりました。今でも広島での父の姿を思い出すと、非常に複雑な思いに駆られます。同時に自分の生き方に大きな影響を受けてもいます。

大学入学で上京してからは?

西川:つてがあって、カテドラルの近くにある和敬塾(わけいじゅく)に入寮しました。昭和30年代半ばで、大学でも寮でもマルクス主義全盛の時代でした。学生が集まれば、すぐに議論が始まるような雰囲気でした。
そんな議論の折、私はまだキリスト者ではありませんでしたが、「人はパンだけで生きるものではない」とか「狭い門から入りなさい」など、聖句を引用してはぐらかしたりしたこともあり、聖書研究会に誘われました。大学1年の夏休みに聖書研究会の合宿に参加しました。そこで出会うのが、澤田和夫神父なんです。

興味深い出会いですね?

西川:誰を講師で呼ぶかという中で、出てきたのでしょうね。一人の先輩が澤田神父を推薦したと思います。
聖書の読み方も時代の反映で、マルクス主義的な傾きが中心でした。私はそのような方法に対し、ちょっと距離を持つスタンスでした。そういう状況の中で、澤田神父との出会いは、実に新鮮でした。そこにイエスの現存を感じました。
当時、川口で司祭生活を送っていた澤田神父のもとに通い、大学2年時に洗礼を受けました。

その後の歩みは?

西川:学生時代、どっぷりとマルクス主義につかっていた先輩たちが、就職の前になると髪を切り、スーツ姿に簡単に変身していくのを見るにつけ、自分は違った生き方を体験しようと思いました。そこで就職ではなく、大学院への進学を選びました。ゼミにも出ずに、日雇いをしていました。しかし修士論文も仕上げずに、日雇い仕事をしていることへの無責任さへの思いはいつも頭の片隅にありました。そろそろ区切りをつける時と言い聞かせ、修士論文に真剣に取り組み、なんとか提出しました。

召し出しのきっかけは?

西川:大学入学、休学、卒業、大学院受験の失敗と翌年の合格、修士課程の修了など10年近くの間、実に好き勝手なことをしていました。
修士論文に真剣に取り組む前で、まだ日雇い仕事にのめり込んでいたある日、山手線にかかる陸橋を歩いていた時のことでした。はっきりと声を聞きました。「私に付いてくるか」という呼びかけです。澤田和夫という司祭を通してご自分を示された方、好き勝手な生き方をしている自分に呼びかけた方に付いていきたいと心から思ったのが、召し出しの原点です。

お父上の反応は?

西川:父は洗礼の時、反対しませんでした。しかし司祭になるということに対しては反対でした。父の中には、男が一生結婚しないということが理解できなかったと思います。それを押し切っての神学院入学でした。
父は後に、広島市内の幟町(のぼりちょう)教会に勉強に通い、受洗しました。

神学生生活は?

西川:入学時、すでに28才でした。そんなこともあって、いきなり神学院の共同生活を始めることにはなりませんでした。院外神学生という身分でスタートし、上智大学に通うことになりました。
神学院も養成スタイルが変わった時代でした。イエズス会から司教団に養成が移管され、札幌教区の田村忠義神父が、新しい体制の最初の院長でした。この田村院長を始め、恩人ともいうべき方々に折々に救われ、クビにならずに今があります。神学生時代も好き勝手なことをしていましたからね。

司祭叙階の日に感じたことは?

西川:感激自体は、助祭叙階の時が強かったですね。ただただ司祭になりたいという思いで、神学生時代を過ごしてきたので。
司祭叙階までの歩みを振り返ると、ダメな自分ばかりです。ダメな自分の根は、意固地さだったり、コンプレックスだったり、照れ隠しだったりするわけです。自分自身だけを見るとどうしようもない存在です。しかし、そんな自分がイエスを背負っている、自分の背中にイエスがいる、背中にいるイエスがダメな自分を生かしてくれるという、叙階の秘跡の持つ偉大な神秘を噛みしめました。

司祭職の完成に向けた思いは?

西川:自分に近い世代の司祭を神様のもとに見送ることが増えました。6月にはアキレス腱も切断しました。体全体も弱ってきていることを思い知らされる毎日です。これらのことを通して呼びかけられていることがあると思います。それを素直に受け取りたいと自戒する日々です。