2014年6月10日火曜日

幼子のこと,聖「霊」のこと

8日は Pentecôte, 聖霊降臨の主日でしたが,子供たちの初聖体のお祝いの日でもあったので,Michael 神父様は,Jn 20,19-23 ではなく,Mc 10,13-16 : 「イェスと幼子たち」を朗読なさいました.

主はおっしゃいます:「神の国は,幼子のような者たちのものである.幼子のように神の国を受け入れる者でなければ,決してそこに入ることはできない.」

手元にある聖書の解説によれば,この場合,幼子は無邪気や無垢の象徴ではなく(なぜなら,わたしたちは皆,罪人ですから),父への絶対的な依存と従順の象徴と解されます.勿論,信頼を付け加えることもできるでしょう.

Lc 15,11-32 の放蕩息子も,無一文になって父のもとに帰るとき,幼子と同じように,自分が父へ完全に依存していることを自覚し,父への従順と信頼に立ち返ります.

先日,MOPP の Fratello Giuliano が放蕩息子の譬え話を説明している文章を読んだとき,この話が復活にかかわるものであることに初めて気づきました.そのことは文字どおりに書かれています:「おまえの弟は,死んでいたが,生き返ったのだ」(Lc 15,31).

幼子たちのようであれば,すぐさま神の御国に入ることができます.すぐに永遠の命に与ることができます.

8日の初聖体式に参列していた子供たちは,皆,そのような子たちでした.

特に,或る男の子の姿にとても感動しました.

彼のお父さんは,故国での政治的迫害を逃れて日本に来て,入管の収容所に入れられましたが,今は仮放免中です.しかし,日本で就労することは許されていません.お父さんがそのような立場にあると,家族全員が住民登録をすることもできません.住民票が無いので,国民健康保険にも入れませんし,子供たちは公立小学校で教育を受けることもできません.

その男の子は,心ある人々の支援のもとに,或る私立小学校に通っています.まだ低学年ですが,初聖体式のときの彼の態度は本当にしっかりしていました.彼がとてもきれいな日本語を話せることも,そのとき初めてわかりました.(その一家には御ミサのたびに会っていたのですが.)

どうか,彼のお父さんが難民として認定され,彼らがいつまでも日本で暮らせますように.

8日には,小学生の娘さんふたりと,彼女たちのお母さんが,三人いっしょに洗礼を受けるという,とても幸せな光景にもうひとつ出会いました.Marie-Monique, Marie-Michèle, Marie-Thérèse に,主の恵みがいつも豊かにありますように.

8日は聖霊降臨の主日でしたから,聖書と典礼にはヨハネ福音書の一節,復活なさった主が弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」とおっしゃるくだりが掲載されています.

聖霊は,多分,キリスト教の諸概念のうちでも最もわかりにくいものだろうと思います.そのわかりにくさの理由のひとつは,πνεῦμα というギリシャ語が「霊」と訳されてしまったことではないかと思います.

「霊」という語からは,幽霊,霊園などに示されているように,死者の霊がまっさきに浮かんできます.そして,霊魂という語が示しているように,日本語では霊と魂を明確に区別することができません.ところが,魂という語は,ψυχή という語,聖パウロが πνεῦμα とは概念的に対立させて用いている語を訳すのに使われています.

聖書では ψυχή は地上的な生,動物的な生命を指します.それは,永遠の命 ζωή とは用語上,明確に区別されています.

πνεῦμα を霊とか霊魂と訳している限りで,ψυχή とどう区別したら良いのかわからないままです.

ところが,さきほどのヨハネ福音書の箇所が示しているように,πνεῦμα は実は,息であり,息吹です.また,Jn 3,8 に示されているように,πνεῦμα は風でもあります.

とすると,πνεῦμα にもっとふさわしい訳語は「気」,「精気」ではないかと思われます.「気」は天から地へ吹き降りてきます.「気」は,神の息吹として,動物的な生命とは別の命をわたしたちに吹き込んでくれます.創世記の冒頭で水の面を舞っているのも,神の息吹です.使徒言行録 2,2-4 では,それは炎という熱い気として使徒たちにくだります.

御ミサのなかで神父様の言葉:「主は皆さんと共に」に対して,わたしたちは「また司祭と共に」と返しますが,このようにしているのは多分,日本だけです.ラテン語では,神父様の言葉 : Dominus vobiscum に対して,会衆は Et cum spiritu tuo と返します.つまり,「主はあなたたちと共に」に対して,「そして,あなたの spiritus, πνεῦμα と共に」と答えるのです.これは,司祭が,キリストから息を吹きかけていただいた弟子たちのように,主の息吹を受けた者である,ということを意味していると思います.司祭は,主の息を代理する者なのです.

残念ながら,「また司祭と共に」にはそのような意味を読み取ることはできません.そして今,それをさらに「またあなたと共に」に簡素化しようという案が考慮されていると聞きます.何をか言わんや!

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