2014年6月20日金曜日

三位一体

6月15日は三位一体の主日でした.聖霊もわかりづらいですが,三位一体は最も難解な神秘だと言われています.この数日間,三位一体のこと,再び聖霊のことについて,いろいろと考えていました.
わたしが個人的に「聖霊」をどう呼ぼうと神父様たちがわたしを咎めることはないだろうと思うので,わたしは「聖霊」を「聖なる霊気」と呼ぼうと思います.
πνεῦμα の訳語としては,「精気」の方がより適切ですが,「聖なる精気」では「せい」の音が繰り返されて煩わしいので,「霊気」の語を選びました.それなら,伝統的な「聖霊」とも一字共通しています.
父なる神には,しばしば,ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井画に描いたように,長いヒゲをはやした長老のような人物のイメージが当てはめられます.
聖なる霊気は,鳩として描かれることが多いでしょう.聖書にもそう喩えられています.
ところが,おもしろいことに,三位一体を画家が描くと,全く同一人物を三人描くことがあります.つまり,描かれているのは,比較的若い男性,イェス様です.全く同一の形姿の人物が三人いる光景は,若干無気味です.

Hendrik van Balen (1575 – 1632)

Fridolin Leiber (1853 – 1912) 

聖なる三位一体は,三にして一なる神の神秘です.この一は,確かに一神教の一でしょうが,しかし,もはや,ひとつ,ふたつ,と数えるための一ではありません.さもなければ,三が一であるということは考えられないですから.つまり,キリスト教,ユダヤ教,イスラム教では神は一人だけだから一神教,インドや日本では神がたくさんいるから多神教という区別は,本質的ではないと思います.
最も本質的な一は,聖書では,YHWH の一です.ユダヤ教の信仰箇条はこの言葉から始まるそうです:「聴け,イスラエルよ!我らの神 YHWH は,一なる YHWH である」(Dt 6,4). 
YHWH はモーゼに燃える柴のなかから御自分を啓示しました:「我は,『我は在る』である」(Ex 3,14).
したがって,もっとも根本的な一,YHWH の一は,YHWH の「我は在る」の一,存在の一です.
ユダヤ教では,いつのころからか YHWH の名をそのものとして発音することができなくなってしまいました.YHWH をその名において呼び出すことは不可能になってしまいました.YHWH は決定的に隠れた神となりました.それは,神の存在の一の神秘にふさわしいことです.
しかし,神は世を愛し,御ひとり子を与えてくださいました (Jn 3,16). 「主イェス・キリストの恵み」(2 Cor 13,13) と言うとき,ですから,それは,イェス様御自身が人間への贈りものだと理解されます.実際,わたしたちは主のからだを御ミサでいただきます.
聖なる霊気は,天から地へ下ってきます.それは,神から人間へ「与える」ことを指しています.
御父が御子を与える:そこに三位一体は存すると思います.
15日の御ミサの朗読箇所から,そんなことを考えました.
Luc

0 件のコメント:

コメントを投稿