2014年6月25日水曜日

御聖体の祝い日,ノートルダム・ド・パリでの枢機卿の説教

6月22日,Michael 神父様は鹿島教会で御ミサをなさるために御不在でした.代わりに,パリ大司教,ヴァントトロワ枢機卿がノートルダム・ド・パリでのなさった説教の日本語訳を紹介します.

2014622日,御聖体の祝い日,アンドレ・ヴァントトロワ枢機卿 [ Cardinal André Vingt-trois ] のノートルダム・ド・パリでの説教:

兄弟姉妹の皆さん,

わたしたちは,命のパンについてのキリストの言葉を聴きました:「このパンを食べるならば,その人は永遠に生きる」(Jn 6,51). この言葉によって,キリストは,わたしたちにこのことを気づかせてくれます:すなわち,わたしたちが知っている生,私たちが直接体験している生,わたしたちが両親からもらった生,死とともに止まってしまう生,そのような生は,もうひとつのほかの命へと開かれているのです.実際,神が人間に命を与え,創造によって命へと呼んでくださっているとすれば,それは,人間を死へ導くためではありません.神は,死者たちの神ではなく,生者たちの神なのです.神は,人間の死を欲してはいません.神は,人間が生きることを望んでおられます.しかし,この終わることのない命,永遠の命と呼ばれるその命は,神御自身の命です.そして,わたしたちが受けた生,その終わりまで生き続けることになる生は,この永遠の実在に対しては,一種の影でしかありません.わたしたちが知っている生は,過ぎ去ってしまう生です.神がわたしたちに与えてくださるのは,永続する命です.過ぎ去ってしまう生を,わたしたちは,生存のために自然のなかに見出されるあらゆる手段によって生き続けますが,それと同様に,過ぎ去ることのない命も,その広がりを十分に展開し,証しするためには,糧と力を必要とします.

わたしたちが普段食べているパン,わたしたちが普段飲んでいる葡萄酒は,地上における糧であり,それは,神がわたしたちに与えてくださる糧の影です.神がわたしたちに与えてくださる糧は,みづから来てくださる糧であり,それがそのような糧とわかるのは,その外見や味によってではなく,その源によってです.それは,天から降って来たパン,神のパンです.この神のパンをキリストが人間たちに告げ知らせるのは,人間たちが必要としている地上的な糧を人間たちに与えた後のことです.この徴を支えとして,キリストは,人間たちの頭と心を,見えない実在へ目覚めさせようとします.この見えない実在とは,キリストの肉,キリストの命,キリスト御自身です.それを,キリストは,人間が生きるために糧としてお与えになります.

そのようにして,わたしたちは,キリストの御言葉により,神の神秘へ導かれます.神の神秘は,神御自身の命を分かち合うことをわたしたちに許してくださり,秘跡によって,わたしたちを神の存在へ結びつけてくださいます.「人間は,パンのみにて生きるのではなく,神の口から出るものすべてによって生きるのである」と申命記が言っているのは,砂漠のなかで試練を受けている民に,地上で生きることよりももっと重大な,もっと重要なことがかかわっているのだ,ということをわからせるためでした.

キリストは,御聖体という徴を与えてくださいました.キリストの肉を表すパンと,キリストの命を表す葡萄酒と.それらを,キリストは,愛によって,人間たちに渡してくださいました.この徴は,つまるところ,人生の意味は何かという問いを,わたしたちに問いかけてきます.何によってわたしたちは生きているのか?わたしたちにとって生きるのに最も必要なものは何か?わたしたちは生きるために何を最優先に探し求めるか?勿論,わたしたちは,生計を立てようとします.勿論,わたしたちは,今の時代にあって,最低限の保障を確保しようとします.しかし,人間は,生計や保証のみによって生きるのではありません.人間ひとりひとりの存在の核心には,神御自身の命という神秘が隠されています.その命は,人間自身がみづからどうにかできることではありません.おそらく,人間存在のなかに神の命が含まれているという感覚を失ってしまったことは,わたしたちの西洋文明のなかで起きたドラマのひとつでしょう.今やわたしたちはこう見なしています,すなわち,人間の生命はひとつの機能であり,それは多かれ少なかれ調和的に働いており,多かれ少なかれ快適であり,多かれ少なかれ壊れやすく,多かれ少なかれ欠陥がある.そしてついには,わたしたちは,しかじかの場合にはそれはもう人間の生命ではないと決定する権限が自分たちにはあると思い込むに至っています.そして,さまざまな基準に応じて人間の生命に対してどういう措置を取るかを自分たちで決めてよい,と思い込むに至っています.さまざまな年齢の人がおり,さまざまな健康状態の人がおり,人間関係を作る能力も人によってさまざまです.そのようなさまざまな人間ひとりひとりの絶対的な価値を神への準拠が保証することがもはやなくなってしまうなら,人間は各々,自分の同類たちの恣意的な判断に身を委ねることになってしまいます.生きる苦労に値する者は誰か?生存するに値するためには,どのようなパーフォーマンスをしなければならないか?周知のように,そのような問いが,決定的なものとして,人々の良心や自由に影響を与えています.しかし,わたしたちは,復活したキリストに寄って立ち,キリストの御からだと御血を分かち合い,キリストから神の糧をいただいています.そのようなわたしたちは,今の混乱した世の中で,力強く証言するよう招かれています:人間が生きるのは,ケアや,人間関係や,人間関係を作る能力や,コミュニケーションの徴候を示すか示さないか,といったことだけでではありません.人間が生きるのは神の存在によってであり,そして,神は人間ひとりひとりの存在の核心に宿っています.

その確信の名において,世界中で多数の人々が,惜しみない努力を以て,兄弟姉妹の苦しみを和らげようとしています.試練のなかで彼らに寄り添っています.彼らを苦しめているハンディキャップにもかかわらず,彼らはわたしたちの目には尊敬すべき神の子供たちであって,彼らの尊厳は,わたしたちが彼らに向けるそのようなまなざしによって証されている,ということを彼らが理解することができるよう,手伝っています.

かくして,キリストの御からだをいただくときに,救いの杯を分かち合うときに,わたしたちは,人間存在へ希望の証言を行います.わたしたちは,神はあらゆる被造物を注意深く,愛を以て見守ってくださることを,告げ知らせます.「試練のなかにある人々を神は決して見捨てない」と,わたしたちは,神に信頼して言います.最も大変な試練のなかで生きている兄弟たちを世話している人々の権威を以て,彼らをを排除することによって問題を解決することを拒否する人々の力強さを以て,わたしたちはそう言います.わたしたちが命のパンの真なる証人であることを神が可能にしてくださいますように.

アーメン.


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