2014年11月18日火曜日

フランチェスコ教皇の説教:教会の局所季候のなかに閉じこもってはならない.

http://www.news.va/fr/news/le-pape-ne-nous-enfermons-pas-dans-un-microclimat

昨日17日月曜日の朝,Vatican Casa Santa Marta の礼拝堂で行われたミサにおいて,Francesco 教皇は言った:選民という局所季候のなかに閉じこもってはならない.

教会のなかで,信徒たちは誘惑に陥ることがある.イェスと共にいながらも,しかし,貧しい人々や,社会のはずれへ追いやられている人々を訪れることなく,教会という局所季候のなかへ自分たちを隔離しておこうという誘惑に.しかし,そのような閉鎖環境は,本当のカトリック教会のものではない.

イェスへ目を向けながらも,助けを求める貧しい人々や,社会のはずれへ追いやられている人々のなかにイェスを見ることを怠る.今日のカトリック教会は,そのような誘惑につきまとわれている.社会的に排除された人々へ扉を開けるのではなく,教会という局所季候の内部に閉じこもっていよう,という誘惑に.

Francesco 教皇の説教は,福音書のなかでも最も印象深いページのひとつに基づいている.そこでは,ジェリコの盲人のエピソードが物語られている.教皇によると,その男は,ルカ福音書の物語に出てくる人物たちのうちの第一のカテゴリーを代表している.社会のなかで何の重要性も持たないが,救いと癒しを欲しており,したがって,目的を達成するまで周囲の無関心の壁よりも強く叫び,ついにイェスの心の扉をノックすることに成功する.そのような者に対して,弟子たちのサークルは,彼がイェスのじゃまにならないように,彼をだまらせようとする.そして,そうすることによって,弟子たちは主を辺縁部から遠ざけてしまう.

弟子たちのサークルが扉を閉めてしまう 彼らはまったく善意でそうしているのだが がゆえに,辺縁部にいる人々は主へ近づくとこができない.そのようなことが,わたしたちカトリック信徒のなかで頻繁に起きている.わたしたちは主を見つけると,知らず知らずのうちに,教会という局所季候を作り上げてしまう.そうするのは,司祭や司教だけでなく,信徒たちもである:「わたしたちは,主のおそばにいる!」そして,主をみつめるあまり,主が何を必要とされているかが見えなくなってしまう.主は,飢え渇いており,牢獄に閉じ込められ,病院に入っている.主は,社会のはずれへ追いやられた人々のなかにいる.教会という局所季候は,不健全である.

次いで教皇は,苦い思いをまぶした皮肉をこめて,選民思想のグループの記述へ移る:「今やわたしたちは選ばれた民だ.わたしたちは主と共にいる.」そのようなグループは,かくして,自分たちの小さな世界を守ろうとする.そして,主のじゃまになる者たち 子供たちさえも をすべて,遠ざけてしまう.

教会のなかで,信徒が,司祭が,司教が,主の近くにいるという特権によって,そのような選民グループを形成するとき,彼らは,最初の愛を忘れてしまう危険をおかしている.あのとても美しい愛,主がわたしたちを呼んで,救ってくださり,「わたしはあなたをこのように愛しているのだ」と言ってくださったときにわたしたち皆が知った愛.そのような最初の愛を忘れてしまうこと.それが,弟子たちの陥る誘惑である.かつてわたしたちは社会のはずれにいたのに,そのことがはずかしくて,辺縁部を忘れてしまうなら,それは,最初の愛を忘れてしまうことである.

先ほどの第一のカテゴリーに対して,第三のカテゴリーと教皇が規定するグループもある.素朴な人々.盲人の癒しのゆえに神を賛美する人々.彼らは,特権を求めない.彼らは,恵みだけを求める.特権を求めることなく,主に従い,主と共に時間を過ごす.そして,とりわけ,子供たち,病人,牢に入れられた人々などから成る「社会のはずれへ追いやられた教会」を忘れずにいる.

「わたしたち,主に呼ばれた者が皆,社会のはずれへ追いやられた教会から決して遠ざからないよう,主に恵みを求めましょう.わたしたちが決して,特権的な弟子たちの教会という局所季候のなかへ閉じこもってしまいませんように.そのような閉鎖環境は,神の教会から遠ざかっています.神の教会は,苦しんでおり,助けを求めており,信仰と神の御ことばを必要としています.」



2014年9月25日木曜日

誰をも排除しない教会のために

先月,土浦市から東京都文京区へ転居しました.ちょうど2年間,Michael 神父様が司牧する土浦教会で過ごしました.その間,牛久入管収容所に拘禁されている兄弟姉妹たちを精神的に支援する Michael 神父様の活動をお手伝いする機会を与えていただきました.そこにおいて,主の御言葉に耳を傾ける弟子の立場だけでなく,主にならって,困窮している人々へ手を差しのべることによって神の愛を証言する伝道者の立場にみづから立つことができ,キリスト教徒であることの喜びをいっそう強く経験することができました.そのような機会を与えてくださった主と Michael 神父様とに感謝します.

今月から,文京区にある本郷教会に所属しています.主任司祭は,Notre Dame de Tokyo 関口教会の主任司祭である山本量太郎神父様が兼任なさっています.山本神父様が毎日曜日御ミサをしてくださることはできません.今までは,岡田大司教様や幸田司教様を含めて複数の神父様が交替で来てくださっていました.

しかし,信濃町駅の近くにある真生会館の建替工事がまもなく始まるので,真生会館の館長 Olivier Chegaray 神父様 (Mission étrangère de Paris) が当分の間,本郷教会の建物のなかにお住まいになることになりました.主日の御ミサを月に2回担当してくださいます.

9月21日の御ミサは,小宇佐敬二神父様があげてくださいました.小宇佐神父様は,障碍児とその家族を支援する「東京カリタスの家」の常務理事をなさっています.本郷教会の建物の4階は,東京カリタスの家のデイサービス活動「カリタスの翼」のために使われています.

また,本郷教会の建物の2階のホールは,来年初めから,難民支援活動を行っている「カトリック東京国際センター」(Catholic Tokyo International Centre : CTIC) の活動のために利用されることになっています.そこで,日本語が十分に話せない人々のために日本語教室が開かれるそうです.

牛久収容所訪問を毎週お手伝いすることは難しくなってしまいましたので,今後は,カリタスの家や CTIC の活動をできるだけお手伝いしてゆきたいと思っています.

障碍者と難民には共通性があります.彼らは共に,日本の社会から排除されています.日本は民主主義国ですが,民主主義は,実際には,差別と排除のシステムです.なぜなら,民主主義においては,多数派を形成する人々が支配権を握るからです.そこから排除される者が必ず存在します.政治的意見を異にする人々だけでなく,民族学的に異なる人々,一般的な労働に就けない障碍者たちは,排除され,社会の一員とは見なされません.形式的には法のもとの平等が掲げられていますが,実際には,差別と排除のシステムが働いています.

カトリック教会は,そのような差別と排除の意識を超克します.そのことを示しているのが,21日の御ミサでの福音朗読:「ぶどう園の労働者」の譬え話です.12時間働いた者にも,たった1時間しか働かなかった者にも,神は差別無く報いてくださいます.

小宇佐神父様は,御自分の体験にもとづいてお話してくださいました.神父様は学生時代,自分の生き方を根本的に見直すために,一時的に山谷で日雇い労働者をしたことがありました.地下鉄の建設現場で機械の入れない狭いところの土を掘り出す作業でした.多くの日雇い労働者がその現場で働いていたのですが,ひとり,alcoholism で全く作業のできない人がいました.既に健康状態はかなり悪いらしく,ツルハシを杖がわりにしてやっと立っていられるだけでした.しかし,ほかの労働者も現場責任者も何も言いません.一日の仕事が終わると,何もしなかった彼にも,ほかの人々と同じく,一日分の賃金が支払われました.

また,たまたま仕事を見つけることができずに全く無収入であった人には,幾人かが自分の収入の一部を分け与えていました.

山谷の日雇い労働者たちは皆,仕事にあぶれたときや,病気などの理由で働けないときに生活の糧を稼げないまま日々を過ごさねばならない不安感を,身を以て知っているのです.ですから,連帯と分かち合いの精神を身につけているのです.

「ぶどう園の労働者」の譬え話は,神の愛はあらゆる人間にあまねく注がれることを示しています.

「ぶどう園の労働者」の譬え話において,朝早くから働いていた者は,1時間しか働かなかった者にも同じ賃金が支払われるのを見て,主人に苦情を言いました.その場面は,「放蕩息子」が帰ってきたときに父に文句をいう兄を思い起こさせます.父は彼に,「お前は,常にわたしと一緒にいる幸福を味わっている」と諭します.朝早くから働いていたぶどう園労働者も,その間ずっと,主のもとで働き,主と共にいました.それにまさる幸福はありません.

放蕩息子を迎える父の喜び,1時間しか働かなかった者に支払われる一日分の賃金は,困窮と苦しみの辛抱に対する報いです.拷問の苦痛と死の恐怖に耐えた殉教者たちに主が報いるのと同じです.

現在の社会から排除された立場にいる人々は,彼らの苦痛の辛抱によって,主の愛を証言しています.わたしたちはむしろ,彼らを見習いたいと思います.彼らは,既に神の御国にいるのです.

Luc

2014年7月23日水曜日

田中昇神父様

7月20日の Notre Dame de Tokyo 聖マリア・カテドラルの10時の御ミサは,ローマ留学から帰国なさったばかりの田中昇神父様の司式により行われました.

田中神父様が翻訳した Gianfranco Ravasi 枢機卿の本:『出会い』に記されている訳者略歴を紹介します:

1976年生まれ.
1997年,関口教会で受洗.
1999年,早稲田大学理工学部卒業.
2001年,同大学院理工学研究科博士前期課程終了.
2001-2004年,三菱化学勤務,医薬品研究開発に携わる.
2004年,東京カトリック神学院入学.
2010年,日本カトリック神学院卒業(東京カトリック神学院は福岡サン・スルピス大神学院と統合されて,2009年に日本カトリック神学院となりました).
2010年,司祭に叙階.
2011年,教皇庁立ウルバノ大学で神学学士号を取得.同大学院に留学.

暫くの間は,目黒教会の助任司祭をなさるそうです.将来は司教様になられるでしょう.楽しみです.

田中神父様がローマから無事帰国し,あらためて東京教区で司牧してくださるようになったことを,主に感謝します.田中神父様にこれからも主の恵みが豊かにありますように.

2014年7月13日日曜日

種まきの譬え話

今日は,Notre Dame de Tokyo 東京聖マリアカテドラルで,山本量太郎神父様司式の御ミサに与ってきました.興味深い説教でしたので,わたしの記憶をもとに御紹介します(以下,文責は山本神父様ではなく,わたし Luc にあります).今日の福音朗読 (Mt 13, 1-23) の一部を先に引用しておきます:

イェスは譬えを用いて語られた:「種をまく人が種まきに行った.まいている間に,ある種は道端に落ち,鳥が来て食べてしまった.ほかの種は,石だらけで土の少ない所に落ち,そこは土が浅いのですぐ芽を出した.しかし,日が昇ると焼けて,根が無いために枯れてしまった.ほかの種は,茨の間に落ち,茨が伸びてそれをふさいでしまった.ところが,ほかの種は,良い土地に落ち,実を結んで,あるものは100倍,あるものは60倍,あるものは30倍になった.」

この有名な譬え話を,イェス様が初めて語ったとき,聴衆はどう受け取ったでしょうか?どう理解したでしょうか?

神父様はかつて,或る高校で聖書研究会の指導をしたことがありました.5, 6人のメンバーは皆,聖書を初めて読む子たちでした.「種まきの譬え話」を読むとき,神父様は,先ほどの引用箇所のみをプリントにして子供たちに渡し,それに続くイェス様の解説の部分は敢えて見せないで,彼らがこの譬え話をどう受け取るか,どう理解するか,彼らの仲間どうしのディスカッションの様子を見てみました.

彼らの結論はこうでした : 1) 種はすばらしい.種には,芽を出し,葉を広げ,花をつけ,実を結ぶ可能性すべてが含まれている ; 2) 種をまく人は,あらゆるところに,どんなところでも差別・区別をすることなく,あまねく種をまいた ; 3) 種をまく人は,既に種をまいた.種は,既にまかれてある.

山本神父様は,子供時代からずっと,この種まきの譬え話を,「良い土地」になれという教訓として受け取ってきました.自分は「良い土地」でなければならないのに,なかなかそうなれない自分に自責の念を感じていました.ですから,子供たちの新鮮な理解にとても感動しました.

種は,イェス様の御ことばです.それは,時代や国籍や信教の区別無く,あらゆる人の心のなかに,もう既にまかれてあります.わたしたち,福音を宣べ伝える者たちが為すべきことは,それらの種が芽を出し,実を結ぶことができるよう,手助けし,見守ることです.

2014年7月9日水曜日

フランチェスコ教皇様の2014年7月6日の説教

教皇様の2014年7月6日の Angelus のときの説教です.(Luc 私訳)

兄弟姉妹たち,今日は!

    今日の日曜日の福音には,イェス様の招待が見出されます.主は,こうおっしゃっています:「労苦し,重荷を背負っている者は皆,わたしのもとへ来なさい.休ませてあげよう」(Mt 11,28). イェス様がそうおっしゃるとき,彼の目の前にいるのは,ガリラヤの街で毎日出会う人々です:つつましく,貧しく,病み,罪深く,疎外された多くの人々... それらの人々は,いつもイェス様の後を追いました.御ことばを聴くためです.希望を与えてくれる御ことばを!イェス様の御ことばは,いつも希望を与えてくれます!そしてまた,せめて彼の服の縁だけにでも触れるために.イェス様御自身も,羊飼い無き羊の群のような疲れ果てた群衆を探し求めました (cf. Mt 9,35-36). それは,彼らに神の御国を告げ知らせるためであり,多くの人々の身体と精神を癒やすためでした.今や,イェス様は,彼らを皆,御自分のもとへ招きます:「わたしのもとへ来なさい」.そして,慰めと休息を彼らに約束します.
    このイェス様からの招待は,不安定な生活条件や困難な生活状況に苦しみ,そして,ときとして有効な身分証明書も持たない多くの兄弟姉妹たちへ届くように,今の時代にまで及んでいます.貧しい国々において,また,豊かな国々の都市郊外において,多くの人々が,遺棄と無関心という耐えがたい重荷を背負わされて,疲れ果てています.無関心:困窮した人々に対して,他者の無関心は何という苦痛を与えることでしょう!しかも,より悪いことに,キリスト教徒たちが無関心なのです!社会の辺縁部では,多くの男女が,世間の無関心に苦しんでいます.満足に生活できないこと,満たされないことに苦しんでいます.自分の生命を危険にさらして故国から移住することを余儀なくなれた人々がたくさんいます.人間を搾取する経済システムの重荷を背負わされている人々は,今日,もっと多い.その経済システムは,耐えがたい軛を押しつけてきます.多くの人々が負わされているこの軛を,しかし,少数の特権階級の者たちは共に背負おうとはしません.天におられる御父の子供たちひとりひとりに,イェス様は繰り返し言います:「皆,わたしのもとへ来なさい」.しかし,イェス様はこの招きの御ことばを,すべてを持っていながらも心が空虚で神無きままである人々に向けても発しています.彼らにも,イェス様は「わたしのもとへ来なさい」と言っています.イェス様の招待は,すべての人々に向けられています.しかし,特に,より多く苦しんでいる人々に向けられています.
    イェス様は,皆に休息を与えることを約束します.しかしてまた,イェス様はわたしたちを招きます.その招きは,ひとつの命令のようでもあります:「わたしの軛を負いなさい,そして,わたしに学びなさい.そも,わたしは心の優しい,謙虚な者であるから」(Mt 11,29). 主の軛は,他人の重荷を兄弟愛を以て背負うことに存します.わたしたちは,キリストの休息と慰めをひとたび受けたなら,今度はわたしたちが,主にならって,優しく謙虚な態度を以て兄弟たちの休息と慰めになるよう,呼びかけられています.心の優しさと謙虚さによって,わたしたちは,他人の重荷を背負うことができるだけでなく,しかしてまた,わたしたちの個人的見解や判断や批判や無関心によって他人の重荷にならないようにすることができます.
    いと聖なるマリア様に祈りましょう.疲れ果てた人々をあなたの庇護のもとに迎え入れてください.主の光に照らされた信仰,わたしたちが人生のなかで証しする信仰を通して,わたしたちが,助けと優しさと希望を必要としている多くの人々のために慰めとなることができますように.




2014年7月3日木曜日

なぜ日本ではカトリックが広まらないのだろう?

7月1日火曜日の朝,定期的な牛久入管収容所訪問へ行く途中,兄弟 François とおしゃべりしながら,話題は Facebook に出ていた結婚式場のことになりました.その建物を「なんちゃって教会」と呼んでる人がいました.ちょっと見には本物の教会に見えます.

日本の一般の人々にとってキリスト教と言うと,クリスマスと結婚式だけでしょう.復活祭はほとんど話題になりません.Halloween はキリスト教の行事ではありません.少なくとも,カトリックの行事ではありません.あとは,長崎の原爆被災の記念日に大浦天主堂で祈る人々の姿がテレビで報じられるぐらいでしょうか.

江戸時代の間はさておき,明治の開国から150年近くたとうとしているのに,また,大戦中は事実上のキリスト教弾圧がありましたが,敗戦と第二の開国から来年で70年になるのに,なぜキリスト教は,特にカトリックは,信仰の実践としてかくも日本で広まらないのでしょうか?カトリック信徒は日本の総人口の 0.3-0.4 % だと言われています.横ばい状態だそうです.

クリスマスと結婚式は,商業主義によってキリスト教の極めて限られた側面のイメージが宣伝されたことによって,社会に広まり,定着しました.美しいクリスマスツリー,楽しいプレゼント,輝かしいウエディングドレス,おごそかな儀式... 

イメージの威力は絶大です.今は何でもイメージにしないと,言葉だけでは相手にしてもらえません.福音を説くのは言葉によってです.主は肉となった神の言葉です.しかし,真理を伝える言葉よりは,キリストとブッダのコンビを描いた漫画の方が多くの人に受け入れられます.

カトリックでは積極的に信者獲得の宣伝活動をしません.教会の門をいつでも誰にでも開いてはいますが,こちらから出かけて行って,押し売りのようなことはしません.

信仰は,やはり,外から押しつけられるものではなく,こころの奥底における神との出会いから始まるものだからです.何かある出来事がきっかけを提供してくれるでしょうが,信仰の出発点は,神の言葉を何らかの形で自分のこころのなかに聞き取ることです. 

十字架につけられた主の像も,きっと,日本でキリスト教が受け入れられない理由のひとつでしょう.しかし,それ無しでは復活の福音を説くことはできません.仮に聖母マリア様のイメージを大きく掲げても,十字架にかけられたイェス様をそれで覆い隠すわけには行きません.

主と出会えたわたしたちは選ばれた者なのだと,うぬぼれているわけにもいきません.

どうにかしてわたしたちが神の愛を証言することができますように.その機会と勇気をお与えください.

2014年6月30日月曜日

殉教者

6月29日は,聖ペトロと聖パウロの記念日でした.聖人の記念日が主日に重なる場合,たいてい聖人の日は無視されてしまいますが,聖ペトロと聖パウロは例外です.Michael 神父様も,殉教者の血の色,鮮やかな赤色の法衣をまとっていました.それを着用するのは殉教者の記念日だけだそうです.

このごろちょっと心配なのは,Michael 神父様の御ミサでのお話に,すごく力がこもっているということです.Michael 神父様は,今年10月で81歳になります.とてもお元気なのに,何だか,死期を悟った人が生き残る者たちにこれだけは伝えておきたいと思って話しているような気迫を感じてしまいます.こんな失礼かもしれないことを言ってしまうのも,こう言っても神父様は気を悪くなさらないという信頼があるからです.

今日のお話のなかでも,聖ペトロと聖パウロが殉教したということを,神父様はとても強調していました.

殉教者 μάρτυς は,証人という意味です.神について,神の愛について,神の命(永遠の命)について証言すること,必ずしも言葉によってではなく,イェスが肉となられた御言葉であるのと同様,みづからの身を以て証しすること.その意味において,μάρτυς は,肉となられた御言葉としての主イェスに最も忠実にならう者です.

最近,Michael 神父様は,わたしたちひとりひとりが神の愛を伝える証人でなければならないと,とても強調しています.主は,御自分の使命を教会に託しました.主にとって,それが唯一の手段でした.証言するのは勇気の要ることです.覚悟が必要です.Michael 神父様は,そのお手本をわたしたちに示してくださっています.

Luc

2014年6月25日水曜日

御聖体の祝い日,ノートルダム・ド・パリでの枢機卿の説教

6月22日,Michael 神父様は鹿島教会で御ミサをなさるために御不在でした.代わりに,パリ大司教,ヴァントトロワ枢機卿がノートルダム・ド・パリでのなさった説教の日本語訳を紹介します.

2014622日,御聖体の祝い日,アンドレ・ヴァントトロワ枢機卿 [ Cardinal André Vingt-trois ] のノートルダム・ド・パリでの説教:

兄弟姉妹の皆さん,

わたしたちは,命のパンについてのキリストの言葉を聴きました:「このパンを食べるならば,その人は永遠に生きる」(Jn 6,51). この言葉によって,キリストは,わたしたちにこのことを気づかせてくれます:すなわち,わたしたちが知っている生,私たちが直接体験している生,わたしたちが両親からもらった生,死とともに止まってしまう生,そのような生は,もうひとつのほかの命へと開かれているのです.実際,神が人間に命を与え,創造によって命へと呼んでくださっているとすれば,それは,人間を死へ導くためではありません.神は,死者たちの神ではなく,生者たちの神なのです.神は,人間の死を欲してはいません.神は,人間が生きることを望んでおられます.しかし,この終わることのない命,永遠の命と呼ばれるその命は,神御自身の命です.そして,わたしたちが受けた生,その終わりまで生き続けることになる生は,この永遠の実在に対しては,一種の影でしかありません.わたしたちが知っている生は,過ぎ去ってしまう生です.神がわたしたちに与えてくださるのは,永続する命です.過ぎ去ってしまう生を,わたしたちは,生存のために自然のなかに見出されるあらゆる手段によって生き続けますが,それと同様に,過ぎ去ることのない命も,その広がりを十分に展開し,証しするためには,糧と力を必要とします.

わたしたちが普段食べているパン,わたしたちが普段飲んでいる葡萄酒は,地上における糧であり,それは,神がわたしたちに与えてくださる糧の影です.神がわたしたちに与えてくださる糧は,みづから来てくださる糧であり,それがそのような糧とわかるのは,その外見や味によってではなく,その源によってです.それは,天から降って来たパン,神のパンです.この神のパンをキリストが人間たちに告げ知らせるのは,人間たちが必要としている地上的な糧を人間たちに与えた後のことです.この徴を支えとして,キリストは,人間たちの頭と心を,見えない実在へ目覚めさせようとします.この見えない実在とは,キリストの肉,キリストの命,キリスト御自身です.それを,キリストは,人間が生きるために糧としてお与えになります.

そのようにして,わたしたちは,キリストの御言葉により,神の神秘へ導かれます.神の神秘は,神御自身の命を分かち合うことをわたしたちに許してくださり,秘跡によって,わたしたちを神の存在へ結びつけてくださいます.「人間は,パンのみにて生きるのではなく,神の口から出るものすべてによって生きるのである」と申命記が言っているのは,砂漠のなかで試練を受けている民に,地上で生きることよりももっと重大な,もっと重要なことがかかわっているのだ,ということをわからせるためでした.

キリストは,御聖体という徴を与えてくださいました.キリストの肉を表すパンと,キリストの命を表す葡萄酒と.それらを,キリストは,愛によって,人間たちに渡してくださいました.この徴は,つまるところ,人生の意味は何かという問いを,わたしたちに問いかけてきます.何によってわたしたちは生きているのか?わたしたちにとって生きるのに最も必要なものは何か?わたしたちは生きるために何を最優先に探し求めるか?勿論,わたしたちは,生計を立てようとします.勿論,わたしたちは,今の時代にあって,最低限の保障を確保しようとします.しかし,人間は,生計や保証のみによって生きるのではありません.人間ひとりひとりの存在の核心には,神御自身の命という神秘が隠されています.その命は,人間自身がみづからどうにかできることではありません.おそらく,人間存在のなかに神の命が含まれているという感覚を失ってしまったことは,わたしたちの西洋文明のなかで起きたドラマのひとつでしょう.今やわたしたちはこう見なしています,すなわち,人間の生命はひとつの機能であり,それは多かれ少なかれ調和的に働いており,多かれ少なかれ快適であり,多かれ少なかれ壊れやすく,多かれ少なかれ欠陥がある.そしてついには,わたしたちは,しかじかの場合にはそれはもう人間の生命ではないと決定する権限が自分たちにはあると思い込むに至っています.そして,さまざまな基準に応じて人間の生命に対してどういう措置を取るかを自分たちで決めてよい,と思い込むに至っています.さまざまな年齢の人がおり,さまざまな健康状態の人がおり,人間関係を作る能力も人によってさまざまです.そのようなさまざまな人間ひとりひとりの絶対的な価値を神への準拠が保証することがもはやなくなってしまうなら,人間は各々,自分の同類たちの恣意的な判断に身を委ねることになってしまいます.生きる苦労に値する者は誰か?生存するに値するためには,どのようなパーフォーマンスをしなければならないか?周知のように,そのような問いが,決定的なものとして,人々の良心や自由に影響を与えています.しかし,わたしたちは,復活したキリストに寄って立ち,キリストの御からだと御血を分かち合い,キリストから神の糧をいただいています.そのようなわたしたちは,今の混乱した世の中で,力強く証言するよう招かれています:人間が生きるのは,ケアや,人間関係や,人間関係を作る能力や,コミュニケーションの徴候を示すか示さないか,といったことだけでではありません.人間が生きるのは神の存在によってであり,そして,神は人間ひとりひとりの存在の核心に宿っています.

その確信の名において,世界中で多数の人々が,惜しみない努力を以て,兄弟姉妹の苦しみを和らげようとしています.試練のなかで彼らに寄り添っています.彼らを苦しめているハンディキャップにもかかわらず,彼らはわたしたちの目には尊敬すべき神の子供たちであって,彼らの尊厳は,わたしたちが彼らに向けるそのようなまなざしによって証されている,ということを彼らが理解することができるよう,手伝っています.

かくして,キリストの御からだをいただくときに,救いの杯を分かち合うときに,わたしたちは,人間存在へ希望の証言を行います.わたしたちは,神はあらゆる被造物を注意深く,愛を以て見守ってくださることを,告げ知らせます.「試練のなかにある人々を神は決して見捨てない」と,わたしたちは,神に信頼して言います.最も大変な試練のなかで生きている兄弟たちを世話している人々の権威を以て,彼らをを排除することによって問題を解決することを拒否する人々の力強さを以て,わたしたちはそう言います.わたしたちが命のパンの真なる証人であることを神が可能にしてくださいますように.

アーメン.


2014年6月22日日曜日

土浦教会の宝物

兄弟姉妹たち,土浦教会のお御堂の,祭壇に向かって左側の壁,オルガンが置かれているところより少し入口寄りのところの床から 2 m ほどの高さのところに,さほど大きくない聖母子像,しかも,黒い聖母子像が置かれているのを御存じですか?あまり注意が向かうところではありません.わたしもつい最近気がつきました.

土浦教会の黒いマリア様

黒い聖母子像というと,フランス南西部のロカマドゥール (Rocamadour) のマリア様が有名です.しかし,土浦教会の黒い聖母子像のオリジナルは,ロカマドゥールのものではなく,Michael 神父様が所属している「イェズス・マリアの聖心会」のパリ本部敷地内のお御堂に祭られている Notre Dame de Paix [平和の聖母]と呼ばれている茶色い木彫の聖母子像です.オリジナルは高さ 33 cm ですから,土浦教会にある像は実物大の複製です.

 平和の聖母

ラテン語では Regina Pacis 平和の元后 

平和の聖母礼拝堂

  オリジナルの製作時期は恐らく1510年代で,製作者については,フランス南部のラングドック地方に住んでいたということ以外,確かなことは不明です.
  マリア様は,ギリシャ風のチュニックと,ルネサンス時代の上衣を着ており,やはりルネサンス時代の様式で結ばれた肩掛けを身にまとっています.イタリア・ルネサンス様式の彫刻です.
  平和を象徴するために,マリア様はオリーブの枝を右手に持ち,平和の王であるイェス様を左腕に抱いています.
  この像は,まずは,1518年に Jean de Joyeuse 子爵が結婚した際に,彼が妻に贈ったものでした.その後は,Jean の孫 Henri de Joyeuse 公爵の所有となり,彼が妻を亡くして1587年にカプチン会修道士となったとき,当該の修道会に寄付されました.
  17世紀なかごろまでには,この聖母子像に対する崇拝は広く人々の間に行きわたり,1658年にはルイ14世がこの像の前でマリア様に祈ったところ病気が癒やされたという奇跡が起こりました.フランス革命の時期には,破壊を免れるために人目から隠されていました.そして,1906年に,Paris 12Picpus 通りにある「イェズス・マリアの聖心会」パリ本部に寄贈され,現在に至っています.
  せっかくこんなにすばらしい聖母子像があるのですから,もっと大切にしましょう.人々に知らせましょう.


平和の聖母への祈り (平和の聖母礼拝堂の公式の祈り)

乙女マリアよ,平和の聖母よ,
あなたは,神の平和,御子イェスをお持ちくださるために
わたしたちのところにまで来てくださいました.
試練や苦しみのときに,
また,伝道の新たな土地へ出発する前に,
あなたに祈ったすべての者たちと共に,
わたしたちもあなたを信頼して御もとに来ました,
あなたはわたしたちの母君ですから.
喜んでください,主に謙虚に使えるおかた,
あなたの御心のうちに,神は,この世でお住まいになるところを設けます.
御子イェスの御心のうちに
神は,優しさと憐れみを啓かしてくださいます.
十字架のもとで,あなたは,
御子がいただく赦しと平和を受け取ってくださいます.
命の水の源,イェスの御心へわたしたちを導いてください.
神の聖母よ,わたしたちが和解の使者となり,
平和の奉仕者となれますよう,
わたしたちのために,わたしたちと共に,祈ってください,
そのとき,わたしたちは知るでしょう,
この世が命を得られるよう,
しかも豊かに得られるよう,
福音の道をあなたと共に歩む者たちに
約束された心の平和を.
アーメン!


平和の聖母への祈り(エステバン・グムシオ Esteban Gumucio 神父様)
乙女マリアよ,
イェスの母君よ,
あなたの優しい御心のなかで
正義と平和,
憐れみと真理は,
抱き合いました.
この世が与えることのできない平和を
復活した御子が与えてくださいますように:
御父との契約を新たにし,
わたしたちを自分自身と和解させてくれる平和を;
信仰における心の交わりである平和,
共同体を形成してくれる平和を;
最も困っている人々と連帯するための愛へ
わたしたちを導いてくれる平和を;
すべての人々のために
希望として輝いてくれる平和を;
イェスの御心によって
我らを伝道の情熱で満たしてくれる平和を;
憐れみと正義,
愛と真理,
喜びと自由の良き知らせを
全世界へ伝えてくれる平和を.
御父に賛美,
聖霊のうちに,
主イェスに栄光.
アーメン!



2014年6月20日金曜日

三位一体

6月15日は三位一体の主日でした.聖霊もわかりづらいですが,三位一体は最も難解な神秘だと言われています.この数日間,三位一体のこと,再び聖霊のことについて,いろいろと考えていました.
わたしが個人的に「聖霊」をどう呼ぼうと神父様たちがわたしを咎めることはないだろうと思うので,わたしは「聖霊」を「聖なる霊気」と呼ぼうと思います.
πνεῦμα の訳語としては,「精気」の方がより適切ですが,「聖なる精気」では「せい」の音が繰り返されて煩わしいので,「霊気」の語を選びました.それなら,伝統的な「聖霊」とも一字共通しています.
父なる神には,しばしば,ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井画に描いたように,長いヒゲをはやした長老のような人物のイメージが当てはめられます.
聖なる霊気は,鳩として描かれることが多いでしょう.聖書にもそう喩えられています.
ところが,おもしろいことに,三位一体を画家が描くと,全く同一人物を三人描くことがあります.つまり,描かれているのは,比較的若い男性,イェス様です.全く同一の形姿の人物が三人いる光景は,若干無気味です.

Hendrik van Balen (1575 – 1632)

Fridolin Leiber (1853 – 1912) 

聖なる三位一体は,三にして一なる神の神秘です.この一は,確かに一神教の一でしょうが,しかし,もはや,ひとつ,ふたつ,と数えるための一ではありません.さもなければ,三が一であるということは考えられないですから.つまり,キリスト教,ユダヤ教,イスラム教では神は一人だけだから一神教,インドや日本では神がたくさんいるから多神教という区別は,本質的ではないと思います.
最も本質的な一は,聖書では,YHWH の一です.ユダヤ教の信仰箇条はこの言葉から始まるそうです:「聴け,イスラエルよ!我らの神 YHWH は,一なる YHWH である」(Dt 6,4). 
YHWH はモーゼに燃える柴のなかから御自分を啓示しました:「我は,『我は在る』である」(Ex 3,14).
したがって,もっとも根本的な一,YHWH の一は,YHWH の「我は在る」の一,存在の一です.
ユダヤ教では,いつのころからか YHWH の名をそのものとして発音することができなくなってしまいました.YHWH をその名において呼び出すことは不可能になってしまいました.YHWH は決定的に隠れた神となりました.それは,神の存在の一の神秘にふさわしいことです.
しかし,神は世を愛し,御ひとり子を与えてくださいました (Jn 3,16). 「主イェス・キリストの恵み」(2 Cor 13,13) と言うとき,ですから,それは,イェス様御自身が人間への贈りものだと理解されます.実際,わたしたちは主のからだを御ミサでいただきます.
聖なる霊気は,天から地へ下ってきます.それは,神から人間へ「与える」ことを指しています.
御父が御子を与える:そこに三位一体は存すると思います.
15日の御ミサの朗読箇所から,そんなことを考えました.
Luc

2014年6月16日月曜日

猫のひとりごと

千駄木の日本医科大学病院のすぐそばにある一炉庵という和菓子屋さんの「猫のひとりごと」です.右側のは外側が抹茶風味.中身の餡はどちらも同じです.おいしかったです (=^ェ^=) !







創業は明治36年.「猫のひとりごと」の名は「吾輩は猫である」にちなんでいます.

2014年6月10日火曜日

幼子のこと,聖「霊」のこと

8日は Pentecôte, 聖霊降臨の主日でしたが,子供たちの初聖体のお祝いの日でもあったので,Michael 神父様は,Jn 20,19-23 ではなく,Mc 10,13-16 : 「イェスと幼子たち」を朗読なさいました.

主はおっしゃいます:「神の国は,幼子のような者たちのものである.幼子のように神の国を受け入れる者でなければ,決してそこに入ることはできない.」

手元にある聖書の解説によれば,この場合,幼子は無邪気や無垢の象徴ではなく(なぜなら,わたしたちは皆,罪人ですから),父への絶対的な依存と従順の象徴と解されます.勿論,信頼を付け加えることもできるでしょう.

Lc 15,11-32 の放蕩息子も,無一文になって父のもとに帰るとき,幼子と同じように,自分が父へ完全に依存していることを自覚し,父への従順と信頼に立ち返ります.

先日,MOPP の Fratello Giuliano が放蕩息子の譬え話を説明している文章を読んだとき,この話が復活にかかわるものであることに初めて気づきました.そのことは文字どおりに書かれています:「おまえの弟は,死んでいたが,生き返ったのだ」(Lc 15,31).

幼子たちのようであれば,すぐさま神の御国に入ることができます.すぐに永遠の命に与ることができます.

8日の初聖体式に参列していた子供たちは,皆,そのような子たちでした.

特に,或る男の子の姿にとても感動しました.

彼のお父さんは,故国での政治的迫害を逃れて日本に来て,入管の収容所に入れられましたが,今は仮放免中です.しかし,日本で就労することは許されていません.お父さんがそのような立場にあると,家族全員が住民登録をすることもできません.住民票が無いので,国民健康保険にも入れませんし,子供たちは公立小学校で教育を受けることもできません.

その男の子は,心ある人々の支援のもとに,或る私立小学校に通っています.まだ低学年ですが,初聖体式のときの彼の態度は本当にしっかりしていました.彼がとてもきれいな日本語を話せることも,そのとき初めてわかりました.(その一家には御ミサのたびに会っていたのですが.)

どうか,彼のお父さんが難民として認定され,彼らがいつまでも日本で暮らせますように.

8日には,小学生の娘さんふたりと,彼女たちのお母さんが,三人いっしょに洗礼を受けるという,とても幸せな光景にもうひとつ出会いました.Marie-Monique, Marie-Michèle, Marie-Thérèse に,主の恵みがいつも豊かにありますように.

8日は聖霊降臨の主日でしたから,聖書と典礼にはヨハネ福音書の一節,復活なさった主が弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」とおっしゃるくだりが掲載されています.

聖霊は,多分,キリスト教の諸概念のうちでも最もわかりにくいものだろうと思います.そのわかりにくさの理由のひとつは,πνεῦμα というギリシャ語が「霊」と訳されてしまったことではないかと思います.

「霊」という語からは,幽霊,霊園などに示されているように,死者の霊がまっさきに浮かんできます.そして,霊魂という語が示しているように,日本語では霊と魂を明確に区別することができません.ところが,魂という語は,ψυχή という語,聖パウロが πνεῦμα とは概念的に対立させて用いている語を訳すのに使われています.

聖書では ψυχή は地上的な生,動物的な生命を指します.それは,永遠の命 ζωή とは用語上,明確に区別されています.

πνεῦμα を霊とか霊魂と訳している限りで,ψυχή とどう区別したら良いのかわからないままです.

ところが,さきほどのヨハネ福音書の箇所が示しているように,πνεῦμα は実は,息であり,息吹です.また,Jn 3,8 に示されているように,πνεῦμα は風でもあります.

とすると,πνεῦμα にもっとふさわしい訳語は「気」,「精気」ではないかと思われます.「気」は天から地へ吹き降りてきます.「気」は,神の息吹として,動物的な生命とは別の命をわたしたちに吹き込んでくれます.創世記の冒頭で水の面を舞っているのも,神の息吹です.使徒言行録 2,2-4 では,それは炎という熱い気として使徒たちにくだります.

御ミサのなかで神父様の言葉:「主は皆さんと共に」に対して,わたしたちは「また司祭と共に」と返しますが,このようにしているのは多分,日本だけです.ラテン語では,神父様の言葉 : Dominus vobiscum に対して,会衆は Et cum spiritu tuo と返します.つまり,「主はあなたたちと共に」に対して,「そして,あなたの spiritus, πνεῦμα と共に」と答えるのです.これは,司祭が,キリストから息を吹きかけていただいた弟子たちのように,主の息吹を受けた者である,ということを意味していると思います.司祭は,主の息を代理する者なのです.

残念ながら,「また司祭と共に」にはそのような意味を読み取ることはできません.そして今,それをさらに「またあなたと共に」に簡素化しようという案が考慮されていると聞きます.何をか言わんや!

2014年6月5日木曜日

牛久入管収容所の兄弟姉妹たちに助けの手を差しのべる Michael 神父様

  JPEG のままでは検索に引っかからないので,Michael 神父様の記事のテクストを書き写しておきます.


助けを求める人に差し伸べる手をもとう!
マイケル・コールマン神父の活動

  法務省入国管理局管轄の東日本入国管理センター(茨城県牛久市)には,超過滞在者(オーバーステイ)や難民申請が認められない非正規滞在外国人が400名ほど収容されている.彼らの中には長年日本で働いていたにもかかわらず突然拘束された人もいれば,不法入国者ということで,飛行場で捕まった人もいる.日本に知人はいない,訪ねてくれる人も助けてくれる人もいない.そんな彼らの SOS を受けて「牛久収容所」へ通い続けるのは,マイケル・コールマン神父.彼は,困っている人,助けを求めている人に手を差し伸べずにはいられない.

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは,わたしにしてくれたことなのである.」
マタイ 25,40.

  マイケル神父が収容所への面会と生活用品の差し入れを始めたのは,10年以上前のこと.土浦教会主任司祭と土浦聖母幼稚園園長を兼務という多忙な現在も,毎週1回の牛久訪問は欠かさない.今は,土浦教会信徒の男性1名と女性3名が同行しているが,彼らはマイケル神父にとって心強い協力者だ.

  「キリスト者は自分のそばに一人ぼっちの人,助けを必要としている人がいたら,彼らのところに愛をもたらすようしなければ.自分の心の中に燃えているイエスの愛を,それらの兄弟に分かち合わなければいけません」というマイケル神父は,国籍も宗教も問わず,分け隔てなく収容所の人々を支援し,面会室の中ではともに祈り,悩みを聞く.

  日本に来る外国人たちは大きく三つのグループに分けられる.旅行者として来る人,仕事や勉強のために滞在する人,そして生きるために来た人.牛久に収容されているのは,ほとんどがこの三番目のグループの人たちだ.

  最後のグループの中には日本で働いてお金を得て帰っていく人々,そして迫害などの理由で自国から逃げてきて帰るところのない人々がいる.強制送還されれば殺されるかもしれない人もいるという.
  法務省入国管理局の資料によると,平成24年に難民認定申請を申し出た人は2,545人.また,難民認定が受けられず異議申し立てを行った人は1,738人.その中で難民認定された人はわずか18人(うち13人は異議申立手続における認定者),難民とは認定されなかったものの人道的な配慮が必要として在留を認められた人は112人である.

  在留の資格をもたずに滞在している人々が日本の法律に反していることは,事実だ.マイケル神父の周りにも,法律違反なのだから強制送還されるのは当然と考える人もいて,彼の活動に批判的な人もいるそうだ.しかし,非正規滞在者と呼ばれる外国人の中には,20年近く日本で働いている人もいることを考えてほしいと,マイケル神父は言う.

  「彼らは厳しい労働条件のもと,日本社会で懸命に生きてきました.時給は低く,保険もない.そんな中で頑張ってきた彼らの存在を,今まで日本の社会は認めていたんです.景気のよいときには彼らの労働力に頼ってさえいました.彼ら一人ひとりにはすでに日本での生活があり,人生があります.家庭があり,家族がいる.子どもたちには未来の夢もある.それなのに不景気になったから,社会が変わったからと突然追い出されても,彼らに帰るところはありません.彼らが直面している状況を,理解していただきたいと思います.」

「わたしについて来たい者は,自分を捨て,日々,自分の十字架を背負って,わたしに従いなさい.」
ルカ 9,23.

  日本人は黙って見ていることは得意.見ることは見る,でも自分から手を差し伸べようとする人は少ないのではないかと言うマイケル神父は,神の福音に従う心があれば,法律の中で生きることと苦しむ人に手を差し伸べることは両立できるはずだと考えている.

  「日本の教会では外に向かって強く語るより,中でお祈りをして穏やかに微笑むほうが敬慶な信者だと思われる.だけどイエスは,すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい(マルコ 16,15)と言われます.信仰は伝えるためのもの.自分がいただいた恵みを分かち合おうという熱意が必要です.宣教の過程では無理解や批判を受けることもあるでしょう.でも,それを恐れていてはいけない.

  「キリストはこの世にいる間に,行いと言葉によって,私たちに愛の精神を教えられた.困っている人を助け,悩んでいる人を慰め,病人を癒してくださいました.私たちもキリストの模範に習い,より深く,より広く,人々を愛する心を養わなければいけない.」

  多くの日本のキリスト者は,自分はキリスト者だと言いながら日本の常識とか日本の感覚の中に生きている.あるところは日本人,あるところはキリスト者という住み分けをしているのではないか... 優しい笑顔で語るマイケル神父.でもその言葉は,深く重い.

「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合いなさい.」
ヨハネ 13,34.

  土浦教会の二階には差し入れ物資が保管された「牛久の部屋」がある.各国語の聖書,洗濯洗剤,歯ブラシ,歯磨き粉,シャンプー,石鹸,下着,靴... とりわけテレホンカードは彼らの生命線だ.牛久収容所での外部との通信手段はカード専用の電話のみ.しかし一枚千二百円のカードを買うお金は,彼らにはない.マイケル神父はテレホンカードをできるだけ安く入手できるところを探し,差し入れている.

  「私がいなくなったらこの活動が続かなくなると困るから,今,同じ気持ちの人を探しています.日本は大奮発の国.大きなニュースに対しては敏感ですが,長くは続かない.二週間くらいはみんな注目して,いち早く寄付が集まったりするけれどすぐ忘れる.イエスはどうだつたでしょうか.今日,明日,明後日,次の日,その次の日... 毎日,あきらめずに少しずつ語り続けたイエスは,すごく頑張り屋です.」

  だから,たくさんの共感者が現れて,一緒に歩いてくれるようになるまで頑張るというマイケル神父は,今年の10月で80歳.若いときより忙しい,と笑う.


Michael 神父様と牛久入管収容所

牛久入管収容所の兄弟姉妹たちを援助する Michael 神父様の活動を紹介する「カトリック生活」誌2013年7月号の記事です.




2014年6月3日火曜日

神の愛の象徴としての主の御心,弟子であるだけでなく宣教者でもあること

土浦教会の6月の教会だよりに Michael 神父様は,Sacré-Coeur の祝い日が今年は6月27日金曜日に当たるのにちなんで,1675年の御聖体の祝いの週の或る日に主が聖 Marguerite-Marie ALACOQUE (1647-1690, フランス,ブルゴーニュ地方,聖母訪問会の修道女) に現れて告げた御言葉を紹介しています:

Alors, me découvrant son divin Coeur, le Seigneur me dit : Voilà ce Coeur qui a tant aimé les hommes, qu'il n'a rien épargné jusqu'à s'épuiser et se consommer pour leur témoigner son amour ; et pour reconnaissance, je ne reçois de la plupart que des ingratitudes, par leurs irrévérences et leurs sacrilèges, et par les froideurs et les mépris qu'ils ont pour moi dans ce sacrement d'amour. Mais ce qui m'est encore le plus sensible, est que ce sont des coeurs qui me sont consacrés qui en usent ainsi. C'est pour cela que je te demande que le premier vendredi d'après l'octave du saint Sacrement soit dédié à une fête particulière pour honorer mon Coeur, en communiant ce jour-là, et en lui faisant réparation d'honneur, par une amende honorable, pour réparer les indignités qu'il a reçues pendant le temps qu'il a été exposé sur les autels. Je te promets aussi que mon Coeur se dilatera, pour répandre avec abondance les influences de son divin amour sur ceux qui lui rendront cet honneur, et qui procureront qu'il lui soit rendu.

そして,主は,御自分の神々しい心臓をわたしに露わして,おっしゃいました:見なさい,この心臓は,その愛を人間たちに証しするために,尽き果てるまで何も物惜しみしないほどに人間たちを愛した心臓だ; しかし,大多数の者たちは,彼らの不敬と冒涜によって,また,この愛の秘跡において彼らがわたしに対して示す冷淡と軽蔑とによって,感謝の代わりに忘恩をわたしに返すだけだ.だが,さらに,そのようにふるまっているのがわたしに奉献された心たちだ,ということが,わたしにとっては最も辛い.それゆえ,わたしはあなたにこう求める: 聖体の祝いの一週間の後の最初の金曜日は,その日に聖体拝領をし,そして,聖体が祭壇で顕示される間に被った侮辱の償いのために贖罪の祈りによって聖体の損なわれた名誉を償うことにより,わたしの心臓を讃えるための特別な祝いに献げられるものとしなさい.わたしはあなたにこう約束もする:わたしの心臓は,それを敬う者たち,ならびに,人々がそれを敬うようにする者たちのうえには,その神々しい愛の作用を豊かに及ぼすために,大きく膨らむだろう.

主の心臓は,勿論,主の愛と慈しみの象徴です.

Michael 神父様は,「今年は,御心の祭日は6月27日になります.この日を,イェス様のお望みどおりに,御心を礼拝し,償い,祝別するための特別な日としましょう」と勧めていらっしゃいます.

6月1日,主の昇天を記念する主日の御ミサのなかで,神父様は印象的なコントを紹介してくださいました.大天使ガブリエルとイェス様との会話です.

To Jesus who has come back to Heaven, the archangel Gabriel says : Oh dear ! You have come back so soon ! What happened to you ? 
Jesus : I wanted to stay on the earth much longer, but they executed me by crucifixion. 
Gabriel : So your mission ended in failure ? 
Jesus : I don't think so. I founded a small group of disciples who will proclaim the gospel to all creation.
Gabriel : And if they fail ?
Jesus : I have no other plan.

天に戻ってきたイェス様にガブリエルは言いました:おや,ずいぶん早いお帰りだね.どうしたんだい?
イェス:もっと長く地上にいたかったんだけどね,十字架につけられて処刑されてしまったよ.
ガブリエル:では,使命は失敗に?
イェス:そうは思わないね.弟子たちの小さなグループを作ってきた.彼らは福音を被造界すべてに告げ知らせるだろう.
ガブリエル:でも,彼らが失敗したら?
イェス:ほかにプランは無いよ.

このコントは,神父様たちのための本に出ているものだそうです.宣教の覚悟を促すための話ですね.しかし,宣教は宣教師たちだけの使命ではありません.

2014年1月15日の一般謁見において,フランチェスコ教皇は,disciples missionaires という表現を用いています.弟子であり,かつ宣教者であること.

洗礼を受けた者は皆,信仰の恵みを主からいただいた者として弟子であり,かつ,信仰の恵みを伝える者として宣教者である.何らかのしかたで主と出会った者は,その出会いの体験にもとづく福音を他者へ伝え,他者と分かち合わずにはいられません.

それは,言葉で福音を述べ伝えることに限られるのではなく,むしろ,理想的には,その者の存在そのものが主の御言葉を体現します.

わたしたち牛久の友の会のメンバーも,そのような宣教者でありたいと思います.

Luc



2014年5月30日金曜日

カトリック土浦教会の信徒 Luc が 牛久入管収容所の兄弟姉妹たちとの連帯を表明するために,また,信仰を弁明するために,blog を始めました.

この blog は,カトリック土浦教会の主任司祭 Michael Coleman 神父様を愛する信徒のひとりが神父様を応援するために個人的に始めました.文責は,すべてわたし Luc 個人にあり,神父様にはありません.

とりあえず今日は,牛久の友の会の blog にわたしが書いたことを引用します.


牛久の友の会は,茨城県牛久市にある法務省施設,入国者収容所東日本入国管理センター,略して,牛久入管収容所,または単に,牛久収容所に拘禁されている人々とともに祈る活動を十数年来続けている Michael Coleman 神父様(カトリック土浦教会主任司祭)と行動を共にするカトリックのグループです.


神父様のお祈りの言葉を,紹介します:


"神様,あなたを賛美します.あなたからいただいた数多くの恵みのために感謝いたします.入管に収容され,大きな強いストレスのなかで,失望のどん底に落ち,病気のために苦しみ,家族や友人から引き裂かれている皆様を,お守りください.どうぞ主よ,このような厳しい環境のなかにいる皆さんに,がんばる力と勇気と慰めをお与えください.Amen."


わたしたちは,被収容者の人々に宣教しているわけではなく,単に,面会し,おしゃべりし,日常生活に必要なもの,たとえば衣類,歯ブラシ,歯磨き,石鹸,洗剤,テレフォンカード,切手などの欠乏に困っている人々には,それらの品物を,わたしたちの限られた資源の範囲内で可能な限り差し入れしています.


そして,彼らのために,彼らとともに,祈ります.


ひとことで言えば,主イェス・キリストがわたしたちに命じたこと:「隣人を愛しなさい」を実践しようと努力しています.そも,聖パウロが言うように,「他者を愛する者は,律法を完遂したのである」(Rm 13,8).


わたしたちの活動に共感してくださる方は,どうか共に祈ってください.そして,可能であれば,資金について御支援いただければ幸いです.


今日は,Michael 神父様とわたしと二人で面会に行ってきました.


神父様は,先週と同様,フィリピン人ふたりと会いました.


わたしが今週会った人は,日本で10年間暮らしてきたのに,過失致死で実刑判決を受け,服役したことにより,滞在資格を失ってしまいました.彼の家族は日本で生活しているのに,受刑を終えても彼は家族のもとに帰ることができません.このような法的措置は,法律体系がそれによっているはずの基本的な人倫に反しています.


彼が家族と共に暮らすことができるよう,祈ります.


Because our brother François suggested me that we might write in Einglish in this blog so that English speaking people can read and know what we do, I try to do so.

Our group, Friends of Ushiku, is a small group of members of Tsuchiura Catholic Church who collaborate with Father Michael Coleman sscc in his activities of compassion and solidarity with detainees of the House of Detention of the Japanese Immigration Bureau, situated in Ushiku City, Ibaragi Prefecture.


Those detainnes are our brothers and sisters who lost or don't have permission to stay in Japan. Some came to Japan without valid visa to escape from persecution they suffered in their own country and to seek refuge in Japan. Others have lived and worked in Japan more than ten years or twenty years without problem and one day they were told by an immigration officer that they can not stay in Japan any more for such and such reasons. And they were arrested like a criminal.


Problems of violation of human rights of detainees and neglect of custodial duties of warders that happen in this House have been pointed out since years. Even very recently, in the last March 2014, two detainees died successively, one because of diabetic complications, the other because of asphyxia caused by aspirated laryngeal foreign body. In both cases, lack of appropriate medical treatment was evident.


Father Michael is a catholic priest, but he doesn't preach to detainees. He simply talks with them and hears carefully what they say with friendship and compassion. And if they suffer from lack of things they need in their every day life of detainee, he gives them, for exemple, telephone cards, postal stamps, clothes, underwears, soap, tooth brush, washing powders, etc. He does so in very limited resources he has in his disposition. And the most important thing is to pray for them and with them. So do we too.


If you feel a sympathy for our poor brothers and sisters detained for years in inhuman conditions, please pray with us for them. And if you would and could, please help them also materially. Your contribution is always welcome.


And if you visit our brothers and sisters in the House of Ushiku and you have a difficulty of communication because our brother or sister doesn't speak English but French, you can contact me by e-mail, for I speak French. My address is :


jeanmarieloukas@gmail.com


Luc